ゴーゴリの『Мёртвые Души(死せる魂)』Том первый(第一巻)を読み終わりました。うら〜!
第一巻といっても、第二巻はほとんど書き上がっていたのに、作者が暖炉に投げ込んでしまったので断片的にしか残っておらず、第三巻は書かれなかったのでした。作者の最初の構想によると、三部作にする予定だったのでした。
リンク
正直に言うと、最初の方は読んでいません。きちんと辞書を引いて読み始めたのは、たぶん第四章から。
オンライン学習会の課題書だったから読んだのであって、自分一人では読もうという気にはならなかったと思います。
私には難しいかなと思ったけれど(実際に難しかった)、主人公のチチコフと一緒にいろんなところに行って、いろんな人に会っているような気分になれて楽しかったです。私は現実の世界では、ほとんどどこにも行かない、誰にも会わないような生活(←そんなことでいいのか?)なので、なおさらです。
解読の際には平井肇の日本語訳と比べながら読み進めました。
リンク
リンク
登場人物が動いたり話したりしているような場面はいいのですが、風景の描写や著者の思い出話みたいな部分は、複雑なうえに(私にとっては)ちょっとだけ退屈でした。
ある英訳とも見比べたりしたのですが、この退屈に思える部分がその英訳ではごっそり省略されていたりしました。訳者がこの部分はいらないと判断したのか、出版社の考えによるものなのか、はたまた参照している原文がそうなっていたのかは、私にはわかりません。
しかし、平井肇訳では一言一句余さず訳してありました。素晴らしい! 「ж」という一文字の言葉もしっかり訳されています。そして、私の知らなかった日本語の言葉や表現をたくさん学ぶことができました。
ただし、時には「これ違うんじゃないかな」と思われる箇所もありまして、特に第十章の「コペイキン大尉の物語」のところは、参照している原文が違うのか、訳している人が違うのかと疑問に思ってしまうほどでした。あるいは私の理解力が不足しているのかもしれません。
一番印象に残った登場人物は、日本語の俗語でいうところの「汚部屋」暮らしの「プリューシキン」でした。プリューシキンは以前は普通に暮らしていた地主でしたが、妻が亡くなってから心の均衡が失われ、何も捨てなくなり、さらに外から物を拾ってきては家の中にためこみ、そして自分はぼろを着て暮らしています。私もできれば何も捨てたくない質なので、他人事とは思えませんでした。
「Пл
юшкин」は研究社露和辞典に掲載されていて、
極端なけち、どけち
と書かれています。
ちなみに主人公のチチコフ(Ч
ичиков)については
金もうけ主義者
となっています。
リンク
読んでいると、研究社露和辞典にない単語もたまに出てきます。そういう単語は「Викисловарь(
https://ru.wiktionary.org/)」を見ればたいてい見つかりました。ここにもない単語は、方言か作者の造語だと思うことにしました(←それでいいのか?)。
著者のゴーゴリはこの小説を「поэма(詩)」と称しています。どうして「詩」なのかな?
ある日、私はこの小説のある箇所を音読していました。すると、何かがかちっとはまったような感じがあり、自分から発せられる音がぐるぐると渦を巻き始め、その渦の中に私はひきこまれ、そのままどこかへ連れ去られてしまうような感覚になりました。おお、これが詩の力というものか? よくわかりません……。そしていつも必ずその感覚がやってくるわけでもありません……。でも面白い感覚だったので、今まで以上に音読に力を入れようと思います。
それから、チチコフが使っていたという「頬の肌理をよくするための石鹸」がどんなものなのか気になります。これを使ったら私もきれいになれるのでしょうか。
↓1984年のテレビドラマ版『死せる魂』。第一話。英語字幕あり。第五話まであります。
Мертвые души 1 серия (драма, реж. Михаил Швейцер, Софья Милькина, 1984 г.)
にほんブログ村続きを読む
https://kotobanobenkyo.seesaa.net/article/505074278.html『死せる魂』第一巻読了