エスペラントについて調べ物をしていた時に、こんな短編小説というか随筆(?)を見つけました。
Jouko Lindstedt
LA HELIKOJhttps://tekstaro.com/t?nomo=artikoloj-el-monato&uzistreketojn=0&tipo=&sekcio=monatotri-006918&antauasekcio=1&postasekcio=1「Monato」というエスペラントの月刊誌に掲載されたもののようです。
「
Tekstaro de Esperanto」には、古いものから新しいものまで、エスペラントの文章がたくさん集められています。検索して、研究に使ったりできるらしいです。
https://tekstaro.com/毎回思うのですが、インターネットって便利だなあ……。その昔、エスペラントの文章を読もうと思ったら、まずは本や雑誌を買うわけですが、家の近所にそのような書籍を売っている店はないので、東京に行った時に買うとか通販で買うとか、そういう面倒臭さがあったわけです。エスペラントに限らず、英語やロシア語でも同じことでした。今はインターネットにつながっていさえすれば、いくらでもテキストを読めるし、誰かがしゃべっているのを聞くこともできる。なんて便利な世の中なんだ……。
さて、この文章の著者は「
Jouko Lindstedt」です。ようこさん? 外国人と結婚した日本人の女の人か、あるいは日本風の名前を持つ女の人なのだろうと私は思いました。でも文章を読んでみると、書き手は男性のようなのです。
次に思ったのは次のようなことでした。エスペラントを使う人たちのなかには、「o」で終わる筆名やニックネームを持つのを好む人が多いのです。エスペラントにおいて、「o」で終わる言葉は名詞だからです。それで「Jouko」もそれの一種かなと思いました。
ところが! 調べて判明したところによると、「Jouko」はフィンランドの男性の名前なのでした。フィンランドには「アキ」とか「ミカ」とか、日本の女性名のような男性名がありますが、「Jouko」という名前もあるんですね……。
文章の内容は以下のようなものです。
「私の住む地区でかたつむりが大発生した。近所の人たちはさまざまなかたつむり退治法を考案し実行していた。かたつむりは家庭菜園の野菜や庭の植物を荒らすし、放っておいて他の家の庭に行かれでもしたら近所迷惑になるので、我が家でもかたつむりを退治しなければならない。妻は長靴をはいた足で、かたつむりを踏み潰す。四歳の娘マリアはそれを面白がり、外出中に見つけたかたつむりまで踏み潰す。ところがある日、娘はかたつむりも生き物であり、自分と同じように家族がいるのかもしれない、ということに気づくのであった」
子供の残酷さと優しさを私は感じました。「優しさ」をこの子のようにあとから学ぶ子供もいれば、たぶん生まれながらに知っている子もいるのだろうと私は思います。
「Infano ne rajtas vidi amoradon kaj mortigadon.」と、この文章の中の「私」は考えてみたりもするのですが、それはどうなのかな? いずれ知ることになる日までは、見せてはいけないということ? そして、そもそも子供に見せたくないことを大人はやっているということ? 人間って面倒臭くてやっかいな生き物だなと思いました。
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https://kotobanobenkyo.seesaa.net/article/501535679.htmlJouko Lindstedt『La Helikoj』、それからフィンランド人の名前について